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上野駅ギャラリー
1973年夏、いつかは「定点観測」をしてやろうと
密
ひそ
かな
企
たくら
みを抱きながら山手線29駅を巡った。103系とよばれる緑色の電車にはまだ冷房もなく、汗だくになりながら、まるで何かに
憑
つ
かれたように東京を歩き回った。3月にはベトナム戦争が一応の終結を迎え、東京は10月に勃発する第4次中東戦争、
そして
あのオイルショックまでのつかの間の平穏な夏休みを迎えていた。定着しはじめた歩行者天国には流行の最先端だったハンバーガーを食べ歩く人があふれ、
テレコ
からは「学生街の喫茶店」がひたすら流れていた。すでに高度経済成長を経た日本は、1960年代とうって変わってモノがあふれ、
街
の様相も今日とそれほど大きな隔たりはないかも知れない。それだけに、29駅が32年を経てどう変わり、そしてどう変わらなかったのか、
時空
を超えた定点観測で明らかにしてみたい。
(なとり・のりゆき)
有楽町は銀座の入口であるとともに、東京都庁の最寄駅でもあった。朝日新聞本社(現・有楽町マリオン)方面へと続く商店街は、現在でもかろう じて残っているが、再開発が決まっており、多くの店鋪がすでに閉店してしまっている。高架橋を行く新幹線も、丸鼻が懐かしい“0系ひかり”から“700系のぞみ”に変わった。
高架ホームと通称される上野駅通勤電車ホームも大きく変わってはいない。ただし、1973年当時は通勤電車に冷房はなく、現在とは比べものにならない混雑率とあいまって、夏の通勤は開け放った窓からの風だけが頼りのサウナ状態であった。
空路はまだまだ庶民にとって身近なものではなく、浜松町からモノレール(当時は日立運輸東京モノレール)で羽田空港に向かうチャンスなどほとんどなかった。折りしも山手線外回りホームに入ってきたのはチョコレート色をした「荷物電車」。まだ首都圏でも手・小荷物輸送が行なわれていたのである。
待ち合わせ場所の目印として東京駅八重洲南口改札外に「銀の鈴」が設置されたのは1969年11月。まだ東京〜岡山間だけだった新幹線はもとより、西日本各地から上ってくる数多くの夜行列車の乗客にとって、「銀の鈴」はまさに頼りの合言葉であった。その後1994(平成6)年夏に地下中央いこいの広場に移設されている。ちなみに現在の鈴は3代目にあたる。
撮影・名取紀之(現況撮影・松本浩司)
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